村上春樹氏の作品の中でも、
なぜなのか、何度も繰り返して読んでしまうのが『遠い太鼓』。
1990年の発行だから、もう23年前なんですね。
とFacebookやかつてのブログに綴っていました。
1990年ということは、来年でもう30年。
かつての投稿を少し書き直して、
今も変わらず感じることをここに残しておきます。
『遠い太鼓』は、村上さんが奥さんと共に、
1986年の秋から1989の秋まで、
イタリアやギリシャの島、ロンドンなどで過ごした日々のことが綴られた、
滞在日誌のようなエッセイ。
何度も手に取っては、ところどころ、ペラペラとめくって、
ついつい読んでしまうのは、どうしてかなぁ、と。
村上夫妻のヨーロッパでの出来事は、
いろいろと、きっちりとした日本とは違って、
えーーーーーっ!という出来事の連続。
何度も繰り返し読みたくなるのは、
想定外の出来事や、うんざりするような日々が続いても、
なんだか、それさえも楽しんでいるかのような、
実は、そういうことが人生の大半だよねと、
妙に納得させてくれるような、
そして、なんと言っても、
だからこその「切なさ」が全編に漂っているからでしょうか。
どう切ないのか、うまくは説明できないですが、
「心地いい切なさ」とでも言うのかな?
「心地いい」と「切ない」は相反する言葉のようですが、
フワフワした浮遊感のような、
その浮遊感が、疲れた心にちょっと気持ちいいような、
そんな切なさを感じるのです。
1990年前後、日本では、バブルの残り香がありながら、
もう、この熱狂は終わりかな・・・、という時代。
昭和から平成に変わったのは1989年。
その年、中国で天安門事件があり、
ドイツでベルリンの壁が崩壊した。
米ソ冷戦終結も1989年。
そして1990年に東西ドイツ統一。
そんな、世界的な体制転換に際して感じたのは、
歴史が、人の心の奥にある大切にしてきたものを、
ザックザックと乱暴に切り取っていくような感じ。
やがて喜ばしいと思うようなことが起きるかもしれないという時に、
なぜだか悲しいような、切ないような、寒気がするような、
そんな空気も漂っていたような気がします。
村上春樹氏が『遠い太鼓』に綴ったその時代、
外国で、それなりの期間を過ごすことは、
それ自体が切ないことだったのかもしれません。
今のように、
どこにいてもインターネットで世界中の情報が集まり、
地球の裏側にいる人とも、
いつでも連絡がとれる時代ではなかったのです。
そういえば、当時、イギリスに住んでいた知人が、
寂しくなると日本語が読みたくなるから、
捨てる雑誌でいいから、
かなり古いバックナンバーでもいいから、
日本の雑誌を送ってほしいと言ってました。
たとえば、生まれた時から
携帯電話やインターネットがある今の中高生、大学生たち。
彼らにとって、切ない感じって、どんな感じでしょうか?
四六時中LINEで連絡取り合うとか、
1日に100通以上のメールを送受信するとか、
それも、寂しいからやること? 心の切なさを埋めるため?
寂しくても、切なくても、
誰にも連絡をとらず、
一人、その切なさの中にいるという経験はしないのかな?
まあ、心というものを持っている人間、そんなことはないでしょう。
と、『遠い太鼓』を何度も読んでしまうのは、
やはり、全編に満ちている浮遊感、
それも、いつも心もとなく寂しいような感じ、
そんな感じが、どういうわけか、なんとも心地よくて、
その、切ないけど心地よかった時代を振り返りたくなるという
個人的感傷からかもしれません。
まあ、とりとめのない感情、とりとめのない文章ですが、
秋だから?